青草新吾の惺々著考 glocaleigyo

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143-1/3. 漢人の歴史トラウマ/ 女真人やモンゴル人からの支配

中国人を理解する上で外せない歴史トラウマとは「12世紀から13世紀にかけての異民族に支配された苦難の歴史、即ち、女真人(満州人)に圧迫された靖康の変から、モンゴル人に植民地支配された大元モンゴル国の時代」であると慶応高校元教諭の佐久協氏は指摘しておられます。

現在の日本人歴史トラウマは敗戦後のGHQ占領東京裁判ですが、漢人を中心とする中国人の歴史トラウマは「1126年に北宋最後の皇帝だった欽宗が満州人のによって連れ去られた“靖康の変”や大元モンゴル国の下で異民族に支配された12-13世紀の受難の時代」であると佐久協(やすし)氏が著書「これが中国人だ(日本人が勘違いしている中国人の思想)」*1で述べておられます。筆者/青草新吾も幾つかの点で合点がいきました。中国の伝統である“憎悪による団結”は靖康の変に起源があるのかもしれません。靖康の変については下術します。
日本とは古代の倭国に始まり、7世紀以降は一貫して日本です。日本は国の歴史連続しています。連続的国家観歴史観を持つ日本人にはとてもわかり難いことですが、中国とは歴史的に連続してきた国ではありません。シナ大陸に初めて中国という国名が登場したのは中華民国が建国されてからです。それまでは異民族支配の時代の例外(大元モンゴル国)を除けば、国名などはなかったそうです。それまでのシナ大陸に存在していたのは王朝名のみで、“王朝が変わるたびに歴史を書き換え”たそうです。シナ大陸では歴史的に国家という概念がなかったし、“中国では天下生民の思想が根強く”て、“今でも国家という概念希薄”といわれます。黄文雄氏の著書*2によると「1907年の早稲田大学における清国留学生部卒業記念で署名した62人は、自分の国籍について、支那と書いたものが18人、以下清国が12人、中華中国が7人で、残り25人自分が何国人か書けなかったという。自分がどこに属しているか当の中国人でさえはっきりした概念を持っていなかったのである。・・・・西洋との交流の必要から、中国は初めて自国に名をつけるとともに、天下=国家生民=国民という概念を後付する必要に迫られたのだ。・・・中国で民は生民、天から生まれた存在で、天下に属した存在であるが、国家との間に関係はない。だからこそ国富民窮という構造が生まれる。」のだそうです。繰り返しになりますが、中華民国以前のシナ大陸では、国名がありませんでした。シナ大陸で存在したのは王朝名だけです。様々な王朝が出ては消えて入れ替る繰り返しでした。そのシナ大陸で、王朝名が途切れて他民族の国名冠せられた時代が“女真人(満州)のに圧迫されて衰退し、大元モンゴル国占領された時代”なのです。つまり今風に言えば「漢民族が異民族に占領され、歴史から漢民族(中国人)の王朝名消え去った時代」でした。佐久協氏の記述については下術します。
儒教について、筆者/青草新吾は、中国韓国儒教と、日本で大きく進化した儒教とは大きな違いがあると感じています。儒教について、井沢元彦*3は「中国の歴史を貫く儒教官僚制度、絶対に過ちを犯さないという中華思想が、同じく過ちを犯さないはずの共産党という悪のシステムを受け入れる土台となった。儒教には万人平等という思想がない。少数のエリートが多くのおろかな民衆を統治するべきという官尊民卑の思想である。中国には死者の安らかな眠りという考えはない。仏教、キリスト教イスラム教にある死後の救済という考え方は、儒教には一切ないからだ。一度、悪人と決められたら未来永劫悪人復権はない。杭州岳王廟(岳飛廟、がくひびょう)には、南宋時代救国の英雄とされた岳王こと岳飛が祀られている。同じ場所に奸臣・売国奴とされる秦檜(しんかい)の夫婦が上半身裸で縛られた像があり、人々はつばをかける。かっては小便をかける者もいた。中国人にとっては、秦檜夫婦は極悪人だから、死後もこうやって辱めるのが正しいと考える。中国で祭るといえば、立派なことをした特定の誰かを対象としている。中国では戦没者みたいな死者を慰めるために祀ったりはしない。日本の靖国神社中国の廟と同じようなもの決め付けて、日本の神社を理解しようともしない。何でも自分の文化のパターンで考えようとする中華病だ。」と指摘しています。
中国の伝統である憎悪による団結は、上述の靖康の変に象徴される中国人の歴史トラウマ、即ち宋代の苦難の歴史に関し、上述した佐久協氏は、「中国の歴史というと、唐代くらいしか想い浮かばない日本人には、宋代の中国の受難と屈辱の歴史はピンときません。その受難が民族的なトラウマとなって現在の中国人にまで及んでいることに気づこうとすらしません。・・憎悪を煽ることは独裁国家にはよくあることですが、中国の場合、その歴史は古く憎悪エネルギー強大なのです。日本には絶対的な国民的英雄も売国奴も存在せず、歴史を学ぶたびに憎悪を甦らせるという体験も伝統もあるませんから、こうした憎悪感情はなかなか理解できないのです。・・・“靖国神社”と“靖康の変”が同じ頭文字をもっていることぐらいは認識しておいた方がよいでしょう。」と中国人の歴史的トラウマについて述べておられます。以下、佐久協氏の著書からの引用です。以下引用「・・靖康元年(1126)に、宋王朝の第八代・徴宗が(満州人の)金との和睦条件を履行しなかったことから、(約束を反故にされて)怒ったが、八代・徴宗に加えて第九代皇帝・欽宗も、さらに皇族・官僚3千余命を北方に拉致する“靖康の変”が起こった。は、靖康の変で領土の北半分失い、臨安(杭州)に首都をおく南宋王朝へと移行します。・・・南宋では、初代皇帝が重用した秦檜(しんかい)が死ぬと“すべての責任秦檜になすりつける運動”が始まりました。反対に英雄とされたのが岳飛将軍でした。・・・今日でも各地からの参詣者が集まる英雄の岳飛将軍記念廟では、岳飛将軍の墓の前に置かれた秦檜夫婦の鉄像は“上半身裸で後ろ手にしばられ、鉄柵に押し込められ、岳飛将軍の墳墓に向って頭を垂れて正座”しています。正座は中国では罪人の座り方です。鉄像の二人の背は爛(ただ)れたように錆を吹いていますが、これは永年にわたって参詣者が小便や唾を吐きかけたためです。・・・・( 宋を南宋に押しやった満州でしたが、今度はモンゴル人が建国した)大モンゴル国が金を亡ぼし、大元大モンゴル国に国号を改め、南進を開始。南宋は亡び、漢民族は、史上初めて異民族の支配を受ける身となります。・・北宋が滅んでから1949年に中華人民共和国が誕生するまでの約7百年間の内、4百年間もモンゴル人の大元モンゴル国(Dai-on Yeke Monyol Ulus )や満州人の大清国( Daicing gurun)により、異民族に支配されたり蹂躙されています。この憤懣(ふんまん)やるかたない屈辱感を少しでも軽減しようと漢民族が創り出したのが、国民的英雄の“岳飛将軍”と国民的売国奴の“秦檜”でした。国民的英雄を持つ国は珍しくありませんが、国民一致の売国奴というのは中国以外ではあまりないでしょう。・・・秦檜(しんかい)に対する憎悪は“憎悪による団結”という伝統で現在の中国にも生きています。」以上引用。・・・
漢民族は、大元大モンゴル国を“元王朝”、大清国を“清朝”というという中華風の王朝名呼び変え、中国でも“日本のように連綿とつながる国の歴史があった”ような宣伝を最近はよくみかけます。中華思想とは、コンプレックスの裏返しではないか?と140と134で前述したモンゴル研究家/宮脇淳子氏は著書((「日本人のためのモンゴル学/朝青龍はなぜ強いのか」宮脇淳子ISBN:9784898315774 )で指摘しています。曰く「中国最初の歴史書である史記(紀元前91年頃/司馬遷)とこの流れを受けた資治通鑑(1084年/司馬光)に出てくる中華思想とは、北方の遊牧民に負けたことから始まった負け惜しみの思想である。天下(世界)を統治する権限は天命によって与えられたものであり、天命(最高神の命令)とは中華の皇帝のみに存在し、たとえ軍事力に秀でていても北方の遊牧民は劣った存在であるという。・・・・日本の中国史は、ほとんどが資治通鑑に偏っていることから、北方の遊牧民皇帝となったの歴史について、モンゴル草原のできごとを過小評価したまま不十分な研究しかない。・・・・・・秦・漢時代の中国の人口は最大6千万人であったが、184年に起こった黄巾の乱が引き金となった戦乱で、230年には魏と呉と蜀の三国を合わせても、人口はわずか4.8百万人激減していた。その後、の時代に (前漢から後漢の時代にかけて長城以南に移住してきた)五つの異民族が中国北部で16の国を建国(五胡十六国時代)し、わずかに生き残った漢人は、長江の南の非漢人地帯に避難し、南朝といわれる亡命政権をたてた。・・・589年に天下を統一したもその後のも、皇帝一族の祖先鮮卑族出身だった。907年に唐が滅ぼされると、五代十国の分裂時代を経て960年が建国されたものの、北方で契丹が建国した (満州からモンゴル高原東部までにも及ぶ)に大敗した。」と、異民族に苦しんだ漢民族の歴史を振り返っておられました。
次頁では、漢人のトラウマに係わった中世モンゴル人の子孫の中で、植民地の中国から撤退し現代に至るモンゴル国の国民性について、次々頁では漢人の死生観について記述します。

*1:「これが中国人だ」佐久協著 ISBN:9784396111137

*2:中華帝国の興亡」黄文雄著 ISBN:9784569659572

*3:「マンガ 中国崩壊」ISBN:9784777150526