継往開来7 西国街道で江戸時代の弁天道と弁天跨線橋 /耐震住宅 /233。
線路を跨(また)ぐ跨(こ)線橋や、道路を跨(また)ぐ跨(こ)道橋、そして建物どうしを結ぶ高架歩道 (ペデストリアンデッキ) は再開発の目玉でもあります。高槻市で初めての景観重点地区となったMUSEたかつき ( 9.3ha ) でも、大きな効果を発揮しました。
主要駅からはアクセスですが、阪急高槻市駅の出口8から6分( 500m )、JR高槻駅からは、中央南口から5分( 400m )、中央北口からは高架歩道( ペデストリアンデッキ )で6分 ( 500m ) にこの弁天跨線歩道橋があります。
弁天という名称は、江戸時代に高槻城下から西国街道に通じた弁天道や弁天通りの名残りです。西国街道の北側に弁天社があったので、弁天道とか弁天通りと呼ばれていたそうです。
弁財天は弁才天ともいわれる七福神の紅一点です。知恵と財福、音楽などをつかさどるそうです。・・・高槻市で初めての景観重点地区となったMUSEたかつきの MUSE (ミューズ) は、ギリシャ神話の女神ムーサ( MUSE )で、音楽や文芸などを司る9人の女神だそうです。日本の女神の弁天様とも仲良くお付き合い頂いているものと期待します。
江戸時代に高槻城下から西国街道に通じた弁天道・弁天通りですが、高槻城下からの出口地点は、今でいえば国道171「北大手」です。ここから弁天通りを経て西国街道に出ていました。西国街道の北側は古曽部地区です。
旧弁天道あるいは弁天通りとは、今なら、さしずめ「阪急高槻市駅・古曽部通り」あるいは都市計画用語風には「古曽部・北大手線」といったところでしょうか。
下の画像右は、阪急高槻市駅の出口8の案内板です。画像左は、弁天跨線歩道橋の入り口 ( 八丁西町1番 ) です。上述しましたが、阪急高槻市駅出口8から 6分( 500m )、JR高槻駅中央南口から 5分 ( 400m ) です。
この弁天跨線歩道橋が開通したことで、上の画像右の阪急高槻市駅出口8の案内のように、阪急高槻市駅とJR京都線で隔てられてきた北の古曽部地区の相互の利便性が大きく向上しました。
下の右の画像は、弁天跨線歩道橋の西国街道・古曽部側出口エレベータ横の案内マップです。JR高槻駅中央北口からの屋根付き高架歩道 ( ペデストリアンデッキ ) でここまでは約5分 ( 400m ) です。
下の左の画像は西国街道の北側からの撮影です。弁天社があったであろうあたりからの撮影してみました。左側建物が関大の高槻ミューズ校、右側の建物が高槻病院のリハビリ病棟です。
上の画像左の交差点から西国街道を左(東)へ 上の画像右の出口案内マップの現在位置からは3分( 240m )の西国街道沿い( 古曽部町二丁目12-27 ) に、青草新吾が提案するブルージェイダイトがあります。
今回は建物の耐震性能について考察してみます。まず第一に、地盤がしっかりしておりさえすれば、軽量な木造住宅の方が鉄骨やRCよりも耐震性能が強化しやすいということ、第二として、単純に耐力壁が多いほど耐震性能が高くなるということ、第三に、壁量計算よりもきちんと構造計算された建物の方が、耐震性能が高いであろうという事実です。
法制上では建築基準法が耐震性を規制しています。今は1978年の宮城県沖地震の後に制定された建築基準改正法1981で「震度6強から7程度の大規模地震で倒壊しない」レベルが建築確認申請の基準となっているそうです。その後の阪神・淡路大震災1995 を経て、改正法1981でも不十分な点があったと分かり、建築基準改正法2000で特に木造に対して条件追加されました。
改正法2000は、改正法1981の耐震性能を十分に確保するために、敷地地面の地耐力を調べる地盤調査( 地耐力調査 ) が必須となり、地盤強度が不十分な場合には地盤改良工事が必要となり「 建物の重みで地盤や建物が不ぞろいに沈んだり滑り出したりする不同沈下が生じた場合は、施工者は引渡しから10年間は無償で修復義務を負う 」ことが定められました。
阪神大震災や熊本地震では、地点によっては最大震度で7くらいだったそうですから建築基準法の「 震度6強から7程度でも倒壊しない 」耐震性能は、命を守るためにも必須といえます。
青草新吾2 令和4(2022).9.28。